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 夕暮れ迫る街並み。ゆったりとしたといった表現のよく似合う辺境の村はいま、黄昏時を迎えていた。
 先ほどまで蒼く澄み渡っていた空も、陽がすっかり傾いて琥珀色の雲が浮かぶ。

 広場に隣接する小さな教会の一室、そのちいさな窓からも傾く西日が差し込んで床に鮮やかなオレンジ色の燐光を残す。
 青年は、その赤さにわずかばかり気を取られながらも、ここにきた本来の理由をしっかりと考えていた。

 緑葉の祭典……大陸の最北端に位置するここブルーフォレアでは、新しい年の始まりでありもっとも厳粛な儀式。加えて一年に一度の村を上げての宴を催す日でもある。
 二つの儀式からなる祭典はいま、最後を迎えようとしていた。
 誓いの儀、最後はいま部屋にいる青年ヒロであった。四年連続のしんがりである。
 四角いこの部屋には窓がひとつと、聖王樹の枝だから切り出したと伝えられている主神シィルベンドの神像しかおかれていない。ここは誓いの間と呼ばれていた。


センチメンタルファンタジー
立ちの章
第一話 「空翠」


 ヒロはゆっくりと神像のまえにひざまづき、そして一年ぶりの神体を仔細に眺めた。何百年も前に作られた像は、すこしも朽ちておらずつやつやと夕日をうけてオレンジ色に彩られていた。刻まれた表情も、どこか優しげに見える。

 神様の顔をあまりじろじろと見るものじゃない。昔父からそういわれていたことを不意におもいだしヒロはあわてて頭をたれた。

 頭の中になにか声が響く……ような気がした。荘厳で、それでいて落ち着きを持った声。
 とはいえ実際のところ、ただヒロが神の声を想像しているだけなのだが。

『リファス・ステラの息子、ヒロ。よくきましたね……』

 そう語りかける声は、慈愛に満ちた女性の声色でヒロの頭に響いた。
 と、同時に小さな部屋が強い白光で満たされる。

「な、なんだ!?」

 ヒロは思わず顔を上げた。想像でしかなかったはずの『声』が実際に聞こえたのである。
 しかも、主神シィルベンドは男性神であるはずのなのにその『声』は女性の声色だった。

『驚くのも無理のないことだとは思います……。けれど、もう時間がないのです』

 ぽかんと大きく口をあけて神像を見上げるヒロ。いや、正確に言うとその神像のとなりを、目を見開いて見つめていた。

「お、俺は夢でも見ているのか……?」

 つぶやく青年。そこには、母性を感じさせる美しさをたたえた女性が、光に包まれながらたたずんでいた。足は床についておらず、なにもない宙に燦然と立っていた。
 そして、「時間がない」といったようにいまだ状況を理解していないヒロの返事を待たず言葉をつむぎ始めた。

『夢ではありません……。ヒロ、よいですか? これから伝える事は全て真実です……』

 空間に立つ柔和な表情の銀髪の女性は、そうヒロの頭に直接響く『声』で語りかけると少しだけ顔を険しくさせてヒロの額に手をかざし、

「!!!」

 次の瞬間、突如としてすさまじいスピードで青年の頭の中をあるイメージが駆け巡った。

 燃え盛る紅蓮の業火、引き裂かれた大地から天を焦がすかというほどに立ち上る炎。街は崩れ落ち、草原は生命のない焼け野原に変わり、森は徐々に燃えつきようとしていた。泣き叫ぶ子供、その子供を蹴り倒しふみつけて我先にと安全なところを求めようとする狂った大人。からだの半分以上が崩れ落ちているのにもかかわらず、魔が乗り移り死ぬこともできず喘ぐものもいた。傷口から黒い粘質の液体を滴らせながら、恐怖に顔を引きつらせその人間と魔との間にもがくものたちを考えれば、崩れ落ちる建物の瓦礫に押しつぶされて息たえたものがどれほど幸せだったことか!
 止めど無い破壊は続く。
 強大な地震と、そのあとの大津波で沿岸の町は消えた。それどころか、津波は川を駆け上り内陸部を突き進み多くの生命を奪った。その波を引き金に山が……霊山ジルティアが黒煙を上げ、怒豪とともに大爆発を起こし溶岩がなだれとなってふもとの街を飲みこむ。
 大陸が沈んで行く……。中央から陥没するように、はじめからそこには何も無かったかのように……。
 空には狂気の雲が渦を巻き、その中央に『なにか』がいた!

「っっっ!」

 そこで唐突にイメージが途切れた。全身に震えがはしり、冷たい汗が鳥肌のたった皮膚を流れ落ちていく。
 ヒロは声にならない悲鳴を上げた。口のなかはからからに乾ききっており、のどが張りつくようであった。イメージがあとすこし続いていたのならば、抗う事のできぬ絶対的な恐怖に身も心も凍り付いてしまうところだった。

『世界神が復活しようとしています。調和神の縛鎖の封印を、予定よりも早く解き放ちこの世界を飲み込もうとしているのです……』

 青年が言葉を無くして呆然と宙を眺めていると、その女性は額にかざしていた手をゆっくりと胸元に持っていき小さくつぶやいた。

 世界神……? 聞いた事のない神の名を疑問に思うが、この女性……たぶん彼女も神々なのだろう……の言わんとするところは察しがつく。
 調和神はこの世界の主神シィルベンドの別名であるし、そのシィルベンドが封印した存在と言えばきっと邪悪なものに違いない。忌むべき存在なのだ。

『そのとおりです、ヒロ。世界神……、あなたたちの間では破壊神と呼ばれる存在が復活しつつあるのです』

 頭の中で考えていた事に対して、その女性から返答が返ってきた事に驚きを覚えたが、神ならばそれも可能なのだろうと納得した。

 と、ずーっとその女性神の顔を見つめつづけていた事を思い出し、はっとなり頭をたれる。

『そんなに緊張する必要はありませんよ』

 すると、銀髪の神はたおやかな笑みを浮かべヒロに言った。
 うつむいた青年の顔は火が吹き出そうなほど真っ赤になっていた。

「は、はい……」

 搾り出すようにしてかろうじて返事をする。と、ふたたび『声』が響いた。

『大陸の南端の地で、かの存在は着実に力を蓄えています。しかし、封印を守るべき調和神はいまだ永き眠りのなかにいます……。あなたの力を貸していただきたいのです』

 青年の頭の中にはさまざまな想いが渦巻いていた。
 なぜ封印がとけつつあるのか? なぜ神々ではなく自分なのか? 自分の力?

「……なぜ俺……、いやわたしなんですか?」

 その想いの中でも一番強かった疑問を、ヒロは口にした。
 はっきり言って、ヒロ自身の信仰心はあまり敬虔なものではなかった。世界に神聖魔法と呼ばれる神々の力を借りた魔法が存在する事から、神の存在は信じていたが……。
 この誓いの儀も、宗教的な儀式というよりは自分たち自身の目標を見定めるための儀式だと思っていたし、今まで実際そうであった。
 だから、青年はどうして自分なのかわからなかった。

『あなたを選んだ理由は……今はまだ……、教えるわけにはいきません。ただひとつ言える事は……、これはあなたにしかできないことなのです』

 不意に彼女の姿が揺らめいた。その身体を透かして向こう側の壁が見える。
 ヒロは顔を上げた。そして、その顔を眺めた。彼女は……、憂いに満ちた顔で青年をじっと見つめていた。

『手を貸してもらえますか?』

 ……俺に何ができるんだろ? たしかに、この村では剣の腕は立つほうだけど、もっと強い奴は星の数ほどいるだろうし。力っていったって……。

 あまりにも唐突な話だったためヒロは迷っていた。迷い、というよりも気負いといったほうがいいかもしれない。あまりにも大きすぎる出来事に、自分の力などなんの役に立つのだろうと考えていた。

「でも……俺には、世界を救うような力はありません」

 見上げていた視線をわずかにそらすと、ヒロは小さな声でそれだけ言った。
 すると、揺らめいていた神の姿がさっと消えてしまった。
 わずか一瞬の出来事だ。瞬きをするかしないかのタイミングでその場から掻き消えていた。

「!?」

 が、次の瞬間ヒロは何者かに後ろからやさしく抱きしめられた。
 それは柔らかく優しく……なによりも安心できる、そんな暖かさをもっていた。彼が母親のぬくもりを覚えていたとすれば、きっとこのようなものだったのだろう。

「大丈夫。あなたならきっとできます」

 その心地よさに戸惑いを覚えどぎまぎしながら、青年は自分の身体にまわされた小さな白い手を見つめる。すぐ耳もとで聞こえた『声』は、頭に直接響く『声』ではなかった。
 先ほどまで揺らめいていた女性は、いまヒロと同じような実体を持って彼を抱きしめていた。

「なつかしいですね。あなたの父親リファスも同じように答えました。20年も昔になります」

 彼女は懐かしさをはらんだ声音でささやき、ちいさくうなづいた。ふぁさっとその豊かな銀髪が流れる。

「と、父さんが……?」

 自分の父とおなじ受け答えをしたということにではなく、自分の父を知っていたという事に対して驚きを覚えた。そして、恐る恐るその白い手に自分の手を重ねゆっくりと目を閉じた。求めても届かない存在である父の存在……。なぜか胸が熱くなった。

『ヒロ……おまえにもいつか運命の時が来る。人生を選ぶ時がきっと来る。だがな、怖がる事はない。そのときは、自分らしく答えればいい……自分なりの答えを出せばいい』

 父の微笑が言葉とともに思い浮かぶ……。おもえば、父はこの事をすでに知っていたのかもしれない。
 万感の思いでゆっくりと瞳を開く。青年の心は決まっていた。

 すると、すっと背中に感じていた存在感が消えた。
 と、ほぼ同時にふたたび目の前の中に半透明の身体が現れる。

『決まったようですね。それではもう一度尋ねます。……ヒロ・ステラ、あなたの力を貸してください。世界を破滅から救うために』

 あたたかい光に包まれた姿、先ほどまでの底のない純粋な優しさとだけはちがう「母の厳しさ」のような響きを含んだ『声』

 ヒロは、ゆっくりと自分の答えを……自分なりに出した結論を言った。

「自分にどんな力があるのか、まだわかりません。けれど……、それがこの世界を救える力ならば、俺はその力を見つけたい……。たとえ圧倒的な破壊と狂気であったとしても、なにもせずに待っている事は自分にはできないから……」

 ふと脳裏にある少女の顔が浮かんだ。守りたい笑顔がある……、本当はそれだけで充分だった。ヒロの心に勇気が湧き上がってくる。

「俺、やります。どこまでできるかわからないけれど、精一杯がんばります」

 不思議と恐怖は無かった。そして、それを見つめていた銀髪の神がやわらかな微笑を浮かべた。

『大切な人がいるのですね。その決意、感謝します。……これを』

 そう言ってその女神はペンダントのようなものをヒロの首にかけた。

「これは……?」

『わたしにできる事はこれくらいのことです。いつかきっと役に立つ時が来るでしょう』

 それは蒼くほのかに輝く石をまんなかに抱いたペンダントだった。と、それをかけてくれた女神の姿が先ほどよりももっと希薄になっている。

『時間のようです……。まずは北王国ノースグリーヴをめざしなさい。王が協力してくれることでしょう』

 にこりと微笑みながら……それでいて瞳の奥に憂いをたたえて『声』は語った。

「最後にひとつだけおしえてくださいっ! あなたはいったい……」

 ヒロは薄れゆく女神に声をかけた。閉じようとしていた瞳を今一度開き彼女は答える。

『わたしの名はフリーイッド。夜を照らす、月の神……あなたたちの間では大地母神とも呼ばれています……』

 優しげなまなざしを残し、女神フリーイッドの姿は空気にとけるように消えた。

『……世界を頼みます。ヒロ……』

 最後に『声』だけがヒロに聞こえた。

「……はい」

 青年は短くそれに答えた。



 夕暮れに包まれつつある辺境の村の祭りは、最高潮の盛り上がりを見せていた。自給自足であまり豊かではない村の、年一度の宴なのだ。盛り上がらないほうがおかしい。
 村の広場には大きなかがり火が焚かれ、それを取り囲むようにおかれたテーブルで村人達が酒を酌み交わしていた。この日の為に用意された料理がどんどん運ばれる。明日からの一年間をのりきるための糧とするのだ。
 談笑が絶え間なく続く。この狭い広場にいま村人のほとんどが集まっているため、その喧騒も普段この村では考えられないほどに膨れ上がっている。  みな年のはじめに浮かれ、笑い、それぞれに楽しんでいた。

 夕暮れが広場をつつみこむ。とはいえ、この特別な日は夜明けまで続くためまだまだ宵の口にもおよんでいないほどであるのだが。

 ヒロが誓いの間からでて来たのはちょうどその頃であった。
 入ったときよりだいぶ時間が経過している。女神フリーイッドとの時間は一瞬のようでだいぶ長かったのかもしれない。それとも、神が時間をあやつったか……。
 先ほどまで神と接していたという実感がほとんどわかないが、青年の決意はかたい。月光神のくれたペンダントが動かざる証拠として胸で揺れていた。

 どちらにせよ、タエコを待たせてしまった事にはかわりない。ヒロは広場の人ごみの中に少女の姿を捜した。
 と、この村唯一の司祭であり一番の年長である長老の姿があった。

 ……旅に出るのならば、長老に話しておいたほうがいいかもしれないな。

 という考えが浮かぶ。
 女神はとにかく『時間がない』と言っていた。具体的にタイムリミットがどれくらいなのかはわからないが、それにしても急ぐにこした事はない。
 だから今のうちに、明日の朝にでも出発すると言う事をちゃんと告げておく必要があった。
 なにも告げずに出て行ったりすれば、やはり心配するだろうし……もっとも、ちゃんと出発を告げたところで心配される事にはかわりないのであるが。

 ヒロはタエコを捜すよりもさきに長老と話しをつけておく事を選んだ。

「あとでどやされそうだな」

 少女との約束だった「夕日」が見えてるうちに話を終わらせなくてはと心に誓いながら、小さくぼやいた。



「ほう……、して旅にでるとな?」

 村一番の年長者であり、この教会の司祭も勤める長老はヒロに言った。二人は今、喧騒に包まれる広場から静寂につつまれた教会の一室へと場所を移動していた。
 長老は儀礼用の礼服から、ほかの村人と同じような普段着にすでに着替えている。

「はい。急な話ですが、明日の朝早くにでも出発するつもりです」

 朱の絨毯のひかれた小さな部屋は、誓いの間よりも少々広いといったくらいだ。
 ちいさな段と、造り付けの木製ベンチ、大神シィルベンドの象徴である銀製の剣を掲げた正面には、創世神話のワンシーンである破壊神と調和神の戦う姿が描かれた絵があった。勇壮で力強いタッチでペイントされた絵画は、普段は公開されない。緑葉の祭典の時にだけ見ることができるものなのだ。

「ふむ……そうか」

 白髪の長老は、それだけ言って長椅子に腰掛けた。青年が拍子抜けするほどのあっさりとした回答だ。

「まずは……、南にあるノースグリーヴ王国に行こうとおもってます」

 女神に言われた言葉を、そのまま繰り返す。事実、大陸の南側に行くにはノースグリーヴを通るか、大きく東回りで東の果ての聖王国イーストエンドを通るしかない。
 どちらが大変かといえば後者のほうだ。冬枯れの街道という古代の民の作った街道があるにはあるが、もう長いあいだ使われていないため荒れが酷く怪物も出る。現在では行商人たちも通らないほどだ。
 北大陸の中央に霊山ジルティアがそびえている限り、選択肢は二つしかない。そのうちひとつが候補と成り得なければ前者を選ぶことは免れない。

「それがヒロの選んだ道ならば……信じた道をこころゆくまでいくがよい」

 長老は、正面に掲げられた銀の長剣を目を細めながら見つめ、ながい沈黙のあとにそう答えた。

「えっ!?」

 てっきり反対されるかとおもっていた青年は、長老の返事に目をぱちくりとまたたかせてあっけにとられた。

「あ、あの……長老……」

 おずおずとヒロは口を開く。

「ふぉ? なんじゃ?」
「理由は……旅の理由は聞かないのですか?」

 すると長老は細めていた目をさらに細くして、ヒロの方を見た。

「理由を聞いて反対したところで、旅をやめるようなおまえではあるまい。それにな、ヒロ……」

 長老は長椅子から立ちあがると、ヒロの前を通りすぎ小さな祭壇のよこに作られた部屋に向かった。ゆっくりと一歩一歩踏みしめて……まるで、その肩になにか重圧がかかっているかのように、長老は歩む。

「これでもわしは聖職者じゃ、世界に異変が起きていることくらい気がついておる。人一倍正義感の強いおまえならば、いつか旅に出るだろうとうすうす思っておった……」

 そういって長老は、小部屋の扉を開けた。ヒロの記憶がたしかならば、その部屋は儀式用の道具や聖典などをしまっておく物置だったはずだが……。長老は「そこでまっていなさい」といい、その部屋に身を滑り込ませた。

 いったいなんなのだろう……? そうヒロが考える間もなく、すぐに長老は出てきた。その手には、一本の剣と装飾の施された木製の箱が抱えられている。
 祭壇に持っていた二つのうち箱だけを置くと、長老は今一度ヒロのほうを向いた。

「長老……、それは?」
「この剣はな、おまえの父からあずかっていたものじゃ」

 自分の問いに対する長老の答えに、一瞬言葉をなくすヒロ。

「父さん……から?」

 反芻するように、長老に尋ねる。こっくりと長老は頷いた。

「うむ、『いつか息子に渡して欲しい』と頼まれておった。いつ、とは言われておらんがきっと今がその時なんじゃろうて」

 そう言うと長老は手にした剣をヒロの前に差し出した。

「うけとるがいい。おまえの剣じゃ……」

 おそるおそる、といった具合で差し出された剣に手を伸ばすヒロ。細くわずかに反った刀身の剣は、手にした時思いのほか重たかった。
 ゆっくりと鞘から引き抜く。と、黒銀の片刃が顔を覗かせた。しっとりと濡れるような光沢を持った鈍い輝きを放つ剣。

「リファスが若い頃使っていた剣、だそうじゃ」
「父さんの剣……」

 そうつぶやいて剣に見入るヒロ。その様子を眺める長老は、なにか複雑な表情をしていた。

「そして、もうひとつ……リファスから預かったものがある」

 祭壇に置いていた箱を丁寧にあけ、中から朱の袱紗に包まれた板きれのようなものを長老はとりだしヒロにゆっくりと見せた。

「……?」

 それはちいさな肖像画……。そのフレームには収められていた箱と同じように精巧な彫刻が施してある。モノトーンで彩られた肖像画に描かれていたのは、若い男女とその女性の腕に抱かれた赤子の姿だった。満面に笑みを浮かべた二人は新婚だろうか、若さと希望であふれた瞳をしていた。
 なんの為に長老が自分にこれを見せているのかよくわからず、青年は不思議そうな瞳でそれを眺めた。

 と、その絵の男性の面影に自分の記憶の中の人物がかぶる。

「と、父さん!?」

 目を丸くして、その肖像に見入るヒロ。描かれていた男は、記憶よりも若かったが父リファスに間違いなかった。
 そして、もうひとつあることに気がつく。

「ってことは、ここに描かれているのは……俺と母さん……」

 物心つく前から母はおらず、どうして自分には母親がいないのかと駄々をこねた幼い日……。父の手で育てられ、母のぬくもりを知らない青年がはじめて見る母の姿がそこにあった。たおやかな笑みを浮かべたその女性は、女神にも勝るとも劣らない美貌だ。

 その肖像画に手を伸ばし、長老からそれを受け取るとヒロは胸に抱いた。なにか熱いものがこみ上げてくるのを、青年は押さえようとしたが……。いつしか想いは一筋の雫となってヒロの頬を伝っていた。

「ヒロよ、リファスはいつもおまえのことを考えていたよ。この肖像をわしに預けたときも、考えに考えぬいてのことだったのじゃろう。母の面影、母の姿を見せないことでおまえを強い子に育てようと決心したリファスの心、察しておくれ……」

 優しく肩に手をおき微笑を浮かべる長老。ヒロはぐっと涙をぬぐい頷いてこたえた。

「……はい」

(リファスよ……、おまえの息子は強く育ったのぉ……)

 その様子を見て、長老はそう心の中でつぶやきひとつ決心をしたように口を開く。

「ヒロ……、これから話す事はリファスから口止めされておったことなんじゃが……。聞けばおまえは苦悩する事になるかもしれぬし、父を恨むかも知れぬ……、そして黙っていたわしをも。……それでも聞く勇気はあるか?」

 それまでの笑顔は消え、どこか苦痛に耐えているような真剣なまなざしで長老は言った。ただならぬその雰囲気にヒロもなにか感じ取っていた。

 しばしの沈黙。青年の心の中でさまざまな葛藤が駆け巡ったが、知りたいと思う気持ちがなによりも上回った。決心をしてこくんとうなずく。

「……長老、俺……そのことを知っておかなきゃいけない気がする……」

 連続するさまざまな出来事、だが青年の心は以外に落ち着いていた。
 しばしの沈黙のあと対峙する長老は渋い顔で頷くと、重々しく口を開いた。

「ヒロ、おまえの母は生きておる……」

「!!!!!!」

 瞬間、ヒロに衝撃が走った。目を大きく見開いて長老の顔を見つめる。青年に言葉は無かった。
 驚くのも無理はない……。リファスからは『死んだ』と聞かされていた母が、生きていると言うのだ。

「おまえの母は、生きておる」

 長老はその言葉を繰り返した。

「母さんが……、生きてる……?」

 自分にとって遠い存在であった母。かすかなぬくもりさえも記憶にない、母の存在。
 『死んだ』と聞かされて、それならば仕方がないとあきらめていた母が、この世界のどこかで生きている?

 と、同時に多くの疑問が浮かぶ。

 母は今どこにいるのか? どうして母は家を出てしまったのか? なぜ幼い自分を置いて行ってしまったのか?

 そしてヒロは、母の名前さえもしらない事に気がつく。それだけ今まで母の存在は縁遠いものだった。

「……うそだ」

 ばんっ、と勢いよく長老の肩をつかむとヒロはすごい勢いでまくしたてた。

「うそだ!! そんなのうそだっ!! 母さんは死んだって、そう父さんがっっ!!」

 肖像を見せられる前ならば、ここまで取り乱す事もなかったろう。
 いままで現実感の無かった母の存在が明らかになり、そしてヒロにとっては衝撃の事実が告げられたのだ。

 長老は青年のなすがままにされていた。それは力任せに老体の肩をつかみ我を忘れるヒロに対して、ずっと隠しとおして来たと言う罪の意識があったからかもしれない。

「生きてるだなんてそんなっ、だったらどうして……母さんは……俺を……」

 やり場のない怒りだという事にはとうに気がついていた。
 長老の肩をつかんだ腕から力がゆっくりと抜けていく。

「それに俺……、母さんの名前さえも知らない……」

 長老から手を離し、ヒロはうつむいて固く目を閉じ小さく言った。握り締めた拳がかすかに震える。

「ヒロ、すこしは落ちついたかの?」

 優しさにあふれた笑顔。村の長を勤めるものの、神に仕える聖職者としての、そして実の祖父のような思いやりに満ちた暖かいまなざしだった。

「……」

 ヒロは黙ったままこくんと頷いた。

「20年前のことじゃ。おまえの父は戦士として魔軍との戦に参加していた」

 訥々と長老は語りだした。その視線は遥か遠い場所を見つめているようであった。

「世界は荒廃し、人々は疲弊し、国々は次々と破壊神の手中におさめられていった。リファスは、それを救う事が自分の運命だとこの村を飛び出しその闘いに身を投じたのじゃ……」

 20年前の魔軍大戦の事は、父からも良く聞かされていたが、その父が実際に闘いの矢面に立っていたとはしらなかった。
 せいぜい、この村を守るために自警団のようなものを組織していたのだろう、くらいにしか考えていなかったし、父もそんなこと一言も言わなかった。

「詳しいことはわからぬ。ここは情報が届きにくい土地ゆえな。じゃが、リファスがこの村を出てから戦況ががらりと変わった。魔軍に対して破竹の快進撃を続けるようになったのじゃ」

「その戦いに、父さんが参加していたと?」

 ヒロは疑問に思った事を率直にたずねた。

「うむ、おそらくな。一年後、戦は終結し破壊神も封印された。そして村に帰ってきたリファスは、一人の女性を連れてきていた。それがおまえの母、シーリンじゃ」

 シーリン……それが母さんの名前……?
 ヒロの胸に深く刻まれる母の名。生きているのならば、いつかどこかであえるかもしれない。その時に彼は、母の名を呼ぶ事ができるのだろうか……?

「シーリンは戦で家族をなくし、そのことで自分の記憶をなくしてしまったとリファスは言っておった。リファスは、そんなシーリンを放って置けなかったんじゃろうな」

 長老の脳裏には、20年前の出来事が昨日の事のようにありありと浮かんでいた。

「シーリンは気立ての良い優しい女性じゃった。村にもすぐなじみ、翌年にはおまえが生まれた」

 いままで知らなかった自分の出生に関する話。けして触れられる事のなかった母の存在に関する稜線に、いまヒロは接していた。

「じゃがの、不幸というものは唐突にやってくるものじゃ。ある夏の嵐の日の夜、わしの家のドアをたたくものがおった。夜中じゃったし、いったい誰かとも思ったのじゃが……。それはリファスじゃった」

「父さんが?」

「うむ、そうじゃ。リファスは、思いつめた表情でこう言った。『妻は、訳あってこの村を出た。息子は俺が育てるが、息子にはシーリンは死んだという事にして欲しい』と」

「でも、なんで父さんは……」

 驚きを隠せない様子でヒロは言った。

「もちろんわしも聞いた。なぜシーリンが村を出たのか、しかも嵐の中。そして、なぜ死んだことにしなくてはならないのかを。しかし、リファスは『どうしても、理由は教えられない』の一点張りで、教えてはくれなかった。ひとつだけ聞いたといえば、シーリンは南へと帰った、ということくらいか……」

「母さんは……南にいる?」

「はじめに言ったように、シーリン自身記憶を無くしておった。じゃから故郷の話などを聞いた事はないんじゃ。リファスも何も言うとらんかったしの」

 そして確証は持てぬが、と言って長老はひとつの仮説を聞かせてくれた。

「シーリンは記憶を取り戻したのだとおもうんじゃ。そして、大切な事を思い出しこの村を出なければならなかった。……どうして嵐の夜に出発しなければいけなかったのか、どうして死んだことにしなければ無かったのかはわからぬ。それを知るおまえの父も、もういないしの……」

 寂しげに落としていた語尾のトーンをやや明るくかえて、長老は言葉を続けた。

「じゃがの、ヒロ。真実はその目で確かめればよい。この旅で、答えを見つけるがよい。生きてさえいればきっと逢える。たった一人の母親なんじゃからな」

 ぽんと、ヒロの肩に手を置く。

「迷わず行くのじゃ、道はおまえの後ろにできる。その一足が道となり、真実を見据える心をつくる。若いおまえにはけして楽な道ではないが、それでも恐れる事なかれ。わしは……いや、この村のもの全てがおまえの無事を祈っておるからの」

 さまざまな想いが交錯した。
 数多くの葛藤が心を行き交った。
 希望、不安、喜び、怒り、それぞれの感情が浮き沈みし迷い、悩んだ。

 けれど、長老の最後の一言はなによりも青年を勇気付けた。

「はいっ」

 激情は春風の流れのように穏やかなものになり、ヒロの決意は揺ぎ無いものになった。
 そして、そっと心の中で誓う。

 再びこの地に戻ってくることを……。


To be Continude.

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